はじめての社会人、野村證券を主戦場に

立教大学を卒業し「野村證券」を選択。
理由は、圧倒的な成長を遂げたかったからです。

しかし、実際の2年間は想像以上に苦しいものでした。
いまだに記憶に残るのは、取材や締め切りに追われた怒涛の毎日。

けれど、振り返れば「社会人のいろは」を教えてくれたのは、
間違いなく野村證券。今でも感謝しています。

10年は野村證券一筋」と決めていましたが、
予想外の展開が待っていました。

01

父の病気が見つかり、事業承継は突然に

父に胃がんが発覚。
医師からは「助からないかもしれません」と告げられました。

突然のアクシデントに、人生の決断を迫られます。
野村證券に残るか、柳井工業を継ぐか。

そのとき、ふと頭に浮かんだのは、
野村證券の支店長に言われた「迷ったら茨の道を選べ」という言葉でした。

迷いはありませんでした。
この強い決意を胸に、経営者としての挑戦が始まりました。

02

「親の七光り」と言われて

2009年、野村證券から柳井工業へ入社。
偶然立ち寄った店での出会い。店主とお客の関係でした

もしも私が店主に横柄な態度を取っていたら、
待っていたのは、「きつい、暗い、汚い」の3拍子が揃った現場でした。

出張先の休憩室では「親の七光り」と陰口を叩かれることもあり、
正直、心が折れそうになる瞬間もありました。

「せめて5年は歯を食いしばってみなさい。」
職人の言葉を胸に、試練を乗り越えていきました。

入社から5年が経ち、
父の信頼を得て「代表」になることができました。

03

父の伝統と私の革新で売上が2倍に

「これで苦労は終わった」とホッとしたのも束の間、
次々と新たな試練が立ちはだかります。

中でも印象に残っているのは、
創業者である父との「経営方針」の衝突です。

父は「既存顧客を大切にしろ」と主張し、
私は「新規顧客を開拓したい」と考えていました。

悩んだ末にたどり着いたのは、
父の意向と私の信念を融合する道です。

既存顧客の信頼を守りつつ、新規顧客も獲得。
その結果、売上は2倍に成長しました。

04

私とみんなの幸せを目指す

現在の柳井工業は、進化と変化を重ねています。

大切にしてきた「プラント施工会社」のDNAを守りつつ、
太陽光発電事業やサウナ事業にも挑戦中。

信頼する仲間と共に、未来の実りを育てています。

振り返れば、義務感や責任感を胸に戦ってきた人生でした。
もっと自分の好きなことをやらせてあげたかった。

だからこそ今は、自分の幸せも、
関わるすべての人の幸せも大切にしたいと思っています。